大阪地方裁判所 平成10年(ワ)271号 判決 2000年2月28日
甲事件・乙事件原告(以下「原告」という。)
大塚偉介
右訴訟代理人弁護士
蒲田豊彦
梅田章二
鎌田幸夫
城塚健之
河野豊
甲事件・乙事件被告(以下「被告」という。)
ハクスイテック株式会社
右代表者代表取締役
泉裕彰
右訴訟代理人弁護士
高野裕士
主文
一 原告の甲事件の請求を棄却する。
二 原告の乙事件の訴えを却下する。
三 訴訟費用は、甲乙両事件とも原告の負担とする。
事実及び理由
第一請求
(甲事件)
原告と被告との間において、平成三年三月二一日施行にかかる給与規定が現に効力を有することを確認する。
(乙事件)
一 主位的請求
原告と被告との間で、別紙一<規定略、金額表のみ表示>平成五年四月一日付退職金規定が現に効力を有することを確認する。
二 予備的請求
原告と被告との間で、別紙二<規定略、金額表のみ表示>平成六年四月一日施行の退職金規定が現に効力を有することを確認する。
第二事案の概要
一 本件は、被告の従業員である原告が、被告における平成八年三月二一日付けの給与規定の変更及び平成一一年一月一日付けの退職金規定の変更が、いずれも不利益変更であり、かつ不利益変更について合理性のない無効なものであるとして、被告に対し、変更前の給与規定及び退職金規定が現に効力を有することの確認を求めた事案である。
二 前提事実(争いのない事実等)
1 当事者等
被告は、化学工業薬品の製造、販売並びに輸出入等を目的とする株式会社である。
原告は、昭和五〇年三月二六日、被告に入社し、現在被告の大阪研究所で勤務している。
被告では、昭和三五年九月四日、総評合化労連沢村亜鉛労働組合が一七七名で結成され、同組合は現在、化学一般関西地方本部を上部団体とする白水化学労働組合(以下「組合」という。)となっている。組合員は二名である。原告は、昭和五一年一月に組合の組合員となり、書記次長、書記長を経て、平成二年より執行委員長を務めている。
2 甲事件について
(一) 被告では、従前就業規則四五条に基づき「給与規定」が定められていた(昭和四八年三月二一日施行 以下「旧給与規定」という。)。
同規定によると、賃金は、基準内賃金と基準外賃金から構成され、基準内賃金には、本給(<1>基準給、<2>資格給、<3>勤続給、<4>職能給)及び諸手当(<1>管理職手当・首席研究員手当・主任研究員手当、<2>職責手当、<3>特殊技能手当、<4>生活関連手当、<5>食事手当、<6>福利厚生手当、<7>社会保険費)があった。このうち、<1>基準給は、年齢を基準に年功的に支給され(旧給与規定一九条)、<2>資格給は資格・区分に応じて支給され(同規定二〇条)、<3>勤続給は勤続一年以上勤務した者を対象に勤続一年につき月額四〇〇円を支給され(同規定二一条)、<4>職能給は「知識・経験・資質・職務能力・勤務成績などの諸要素を総合判定」したうえで、その区分に応じて一定の幅の中で支給されていた(同規定二二条)。
右<1>の基準給と<3>の勤続給は年齢と勤続年数に応じて支給されており、旧給与規定の定め及びその運用は年功的であって、被告も旧給与規定の賃金体系は年功部分八〇パーセント、職能部分二〇パーセントであると説明していた。
(二) 被告は、平成八年六月、従来の年功序列の制度運用を廃止し、「能力・成果に応じた賃金」を標榜する新賃金体系を提案した(以下「新給与規定」という。)。
(1) 新給与規定においては、総合職と担当職の区分が導入され、両者は転勤、職種移動、業務内容、昇進昇格、出向、期待要件などで異なるとされた。この総合職には、研究、営業の大部分の社員が振り分けられ、原告も、総合職に振り分けられた。
総合職の職能等級格付基準は、以下のとおりである。
Aグループ 経営幹部社員に対応
M2、M1、S2、S1にそれぞれ格付け
Bグループ 幹部社員に対応
JM3、JM2、JM1にそれぞれ格付け
Cグループ 一般社員に対応
J3、J2、J1にそれぞれ格付け
(2) また新給与規定における賃金は、基準内賃金と手当及び基準外賃金により構成され、基準内賃金は<1>年齢給、<2>職能給、<3>成績給、<4>調整給からなるとされた。
<1>年齢給
総合職B、Cグループ及び担当職に支給される。
年齢給は年齢支給表に応じて支給されるが、総合職B・Cグループで三五歳以上の場合、最高額の一五万円が支給される。
<2>職能給、成績給
総合職・担当職に支給される。社員の職務内容・職務遂行能力・責任度合いなどを考慮し、総合職の職能等級ごと及び担当職の等級ごとにそれぞれ定められている。
職能給は、新給与規定の職能給表により、各グループの職能、等級毎に決められている。成績給も、同じく成績等級表により職能及び号棒(ママ)により決められる。
(3) そして、従業員をSS、S、A、B、C、D、E、Fの八ランクに査定評価し、これにもとづいて昇給(「成績給」の昇給)、昇格(「職能」格付けの上昇)がなされる。具体的には、昇給についてはSS(七号棒(ママ)昇給)、S(六号棒(ママ)昇給)、A(五号棒(ママ)昇給)、B(四号棒(ママ)昇給)、C(三号棒(ママ)昇給)、D(二号棒(ママ)昇給)、E(〇号棒(ママ)昇給)、F(マイナス一号棒(ママ))とされ、他方昇格については、年二回の査定でSSを二回とれば、二階級昇格、S、SSをとれば昇格、S、Sのときは協議、二年間にいつもA以上であれば昇格、三年間にいつもB以上であれば昇格、それ以外は協議によるとされている。
(4) このように新賃金規定では、総合職B・Cと担当職については、年齢給が定められているものの、この年齢給は一定年齢で頭打ちとなること、また総合職・担当職とも職能給・成績給など成果型の賃金が基準内賃金の中心となり、旧賃金規定と比較して、能力給に重点をおいたものとなった。被告も、今回の改定で、年功部分は二〇パーセント・能力給部分は八〇パーセントになると説明している。
(5) 原告は、平成八年にJM3、二五号に仮格付けされ、平成九年にJM3、二八号に、平成一〇年にJM2、一六号にそれぞれ仮格付けとなり、平成一一年一月一日にJM1、三号に正式に格付けされた。
新給与規定の導入に際し、平成八年六月から平成一〇年一二月までの試行期間が設けられ、この間給料が減少した者については、改定前の賃金額(原告の場合は四〇万二二八〇円)を補償すべく差額を調整給として支給し、さらに平成一一年一月の正式格付けにおいて従来賃金に達しなかった者については、一年ないし一〇年分の賃金減額分を補償することとされた。原告の場合は、従来賃金との差額が一万三五三〇円とされ、平成一一年三月一五日に、四年分(ただし一年を一七ヶ月で計算)である九二万〇〇四〇円が支給された。
(三) 組合との交渉経過
平成七年一二月一五日に、被告は、組合との団交で、新たな賃金規定を研究していること、平成八年四月中旬までに案を出し四月から実施すること、内容は能力、職種にあった賃金体系となることを表明した。右同日及び平成八年一月一一日の両日に、組合は、被告との団交で、賃金体系の変更は従業員にとって大きな影響のある問題であるから、組合と十分に協議して検討するように要求した。被告は、同年六月一七日に、団交で、組合に対し文書で新賃金体系を提案し、これに対し組合は質問及び要求は追って提出するということで対応した。
同月二六日、組合は、被告との団交で、被告の提案では「四三歳で三五万円にしかならないこと」「人事考課の公正さを保つ保障がない」旨の意見、質問を述べた。また同年七月五日、組合は、団交で、抗議要求書を提出し、被告の提案は賃金破壊であり、公平な査定はあり得ないと指摘して、新賃金体系の実施を凍結するように申し入れた。
同年七月二五日、被告は新給与規定を同年三月末日に遡って仮に実施した。
同年八月七日 (ママ)同年九月一〇日、同月一九日、同月三〇日等の団交において、組合は、労働者に不利益変更をもたらすものであり、極めて恣意的運用になるおそれがあるとして反対した。また平成九年五月一四日 (ママ)被告の一方的実施に対し、組合は「新賃金の撤回、新賃金の強行試行の中止、組合と話合え。」と抗議し、団交でも同様の抗議をした。
3 乙事件について
(一) 被告における退職金の算定は、平成一一年一月一日以前では、勤続年数によってきまる制度導入時の基本退職金に、その後勤続一年毎に前年度の金額の「乗率」を加算していくものとされてきた(以下「旧退職金規定」という。)。
旧退職金規定別表には、イ、ロの二本のラインがあり大卒以上はイを適用するとされ、また退職時に勤続三〇年以上の者は、修士博士課程加算として六年を加算するものとされていた。原告の場合、昭和五〇年三月に入社し、平成二一年一二月三一日に定年となるから、入社から定年までの勤続年数は三四年一〇ヶ月であり、修士・博士課程学歴を有しているから、これに六年を加算した四〇年一〇ヶ月が定年時における退職金算定にあたって用いられる勤続年数となる。
なお、右「乗率」について、平成六年三月時点では四%とされていたが、同年四月一日以降、被告は組合に対し、四%から二%に切り下げる旨通告した。
旧退職金規定による退職金の計算方法は以下のとおりである。
四%の場合
(基本退職金)×(一・〇四)のn乗二%の場合
(基本退職金)×(一・〇二)のn乗(nは、平成五年四月から退職までの年数。端数がある場合は、月単位で比例計算する。)
(二) 被告は、平成一一年一月一日付けで新たな退職金制度を施行した(以下「新退職金規定」という。)。
新退職金規定は、平成八年三月二一日付けの職能制度を基礎に、従業員が格付けされた職能に応じて決められたポイントを加算し、これを毎年積み上げて退職金額を決定する方式(ポイント制退職金)をとっている。
三 争点
1 甲事件
(一) 新給与規定による不利益の有無
(1) 旧給与規定による平成八年以降の原告に対する予想賃金額
(2) 新給与規定による原告に対する予想賃金額
(二) 新給与規定に改訂することの合理性の有無
(1) 必要性の有無・程度
(2) 新給与規定の能力評価の運用等
(3) 代償措置の有無、労働組合との交渉経緯、他の労働組合や従業員の対応等
2 乙事件
(一) 旧退職金規定の有効性の確認の利益の有無
(二) 旧退職金規定の乗率切り下げに対する組合の合意の有無
(三) 新退職金規定へ改訂することの合理性の有無
四 当事者の主張
1 甲事件
(一) 原告の主張
(1) 争点(一)について
新給与規定は、旧給与規定を不利益に変更したものである。
旧給与規定における、原告の定年までの予想月額賃金は別表1のとおりである。被告の旧給与規定は、制度上も運用上も年齢と勤続年数に比例する年功制度であり、それ自体既得権として労働契約上保護されるべき法的権利である。職能給については、旧給与規定の運用においても一定の幅があり一義的に定まったものではなかったが、原告の従前の受給実績をもとに、「回帰分析」の一つであるガウスの「最小自乗法」により最近似値をとる二次曲線を求め、この二次関数から各年齢における推定受給額を算定しており合理的なものである。
他方、新給与規定による、原告の定年までの予想月額賃金は別表2<一部表示>のとおりである。そして、別表3<一部表示>・4<略>は平成八年以降原告が定年退職するまでの間の、旧給与規定による場合と新給与規定による場合とのそれぞれの予想賃金を月額ごと及び総額で比較したものである。
これらによると、原告については、新給与規定に基づく評価が全てAが続いた場合を除き、新給与規定による賃金が、旧規定によって予測される賃金を下回るところ、原告の現在の評価はBであり、被告が標準的評価がCであると言明していることからすると、原告を含め大多数の従業員についてSSないしSが続くことはあり得ない。
(2) 争点(二)について
新給与規定への改定には、以下のとおり合理性は存しない。
<1> 新給与規定のもとでは、A評価が続いた場合にのみ旧給与規定に基づき予想される賃金を上回ることになり、定年までの賃金総額で見るならば、「普通」のCが続いた場合には二〇二八万二五九六円のマイナス、「優れている」のBが続いた場合でさえ九五九万八〇九六円のマイナスという大きな不利益を被る。
また月々の賃金額の比較で見るならば、当初はどのような評価をとろうとも毎月の賃金額はマイナスとなるのであり(プラスに転化するのは、SSが続いた場合で平成一三年後、Sが続いた場合で平成一五年後、Aが続いた場合でも平成一七年後)、賃金が生計費であることに照らせば、当面受領する毎月の賃金額が下がること自体が不利益である。
被告は、原告の平成八年給与規定改定時(平成八年三月末日まで遡及して適用)の賃金(四〇万二二八〇円)との対比を主張するが、旧給与規定によって予想される賃金は、従業員にとって既得権ないし期待できる法的地位となっているのであるから、新給与規定における賃金と比較されるべきは、旧給与規定において予想される賃金であるべきである。
また、被告が行った経過措置は、平成一四年までのものであること、あくまで改定時の賃金額からの減少額を補填するものにすぎないことからすると不利益性を緩和するものとはいえない。
さらに、新給与規定の実施により、四五歳以上の中高年者の概ねの者の賃金が減少していることなどからすると、新給与規定は中高年という理由だけで不利益を与えるものであり、また実施後は、被告が支払うべき賃金総額は減少している。
<2> 被告の四五期、四六期は経常赤字となっているが、これは、不動産投資、株式投資の失敗による一時的なものであり、化学品の本業は順調であったのであるから、賃金改定を行って従業員に不利益を受忍させなければならない経営上の必要性はない。
また化学部門の売り上げは、平成五年以降営業利益、経常利益とも順調に推移しており、アクション二〇〇〇計画におけるインセンティブ(成果還元)の導入は営業部門を対象に導入され、研究部門では実例がないことからしても、新給与規定は研究部門における新製品開発には何ら貢献していないのであるから、新給与規定は被告の収益確保には役だってはいない。
<3> 被告が主張するような、被告社内での不公平感、沈滞した雰囲気はなく、新給与規定への改定は、日本の一部にある能力、成果主義の賃金体系の導入という世間の流行に便乗したものにすぎない。
<4> 新給与規定、職務基準、職能要件の規定の仕方が抽象的、不明確であり、格付けについても、それ自体明確な基準がなく、被告代表者が「ブラックボックス的な面はある。」と述べたように恣意的に運用されている。また査定基準そのものが不明確であり恣意的運用のおそれがあり、人事考課は一切公表されず、本人にも評価、査定理由は通知されず、結果(賃金総額)を知らせるのみである。さらに目標管理制度も目標の難易度について客観的基準がなく、上司との個人面談で無理な目標を持たせられたという者がいることからも、恣意的に運用されているといえる。
<5> 新給与規定においては、賃金減額の不利益にかわり別途利益を付するところの代償措置は設けられていない。
<6> 被告においては、労働条件の変更に際し、従来組合と協議を尽くし、組合の合意を得たうえで実施するという労使慣行が存在したにもかかわらず、被告は新給与規定を組合との協議を尽くさないまま強行実施した。
<7> 新給与規定への改定に伴う、就業規則変更手続については、労働者の過半数を代表する者(以下「過半数代表者」という。)足り得ない者が過半代(ママ)表者となり、また過半数代表の選任手続について投票、挙手等の方法による手続が履践されなければならないにもかかわらず、かかる手続は採られていない。
(二) 被告の主張
(1) 争点(一)について
<1> 別表1の予想は、何ら根拠のないものである。
被告の計算によると、旧給与規定の下での平成八年以降の原告の予想賃金額は別表5のとおりとなる。
原告の主張のような回帰曲線をたどるには、<1>年率三パーセント程度の実質経済成長が安定的に続くこと、<2>被告企業が賃金増額に耐えうるような収益をあげること、<3>原告自身の能力成果が賃金の上昇に見合って上がっていくことが必要である。しかし現実には最近二年間の経済成長はマイナス成長であり、個人の能力や成果も五五歳以降低下するのが一般である。
また、旧給与規定下での賃上げ額には、金額的に明確に分離できないもののインフレ率に相応すると考えられる相当な割合のベースアップ分が含まれていた。他方新給与規定には、右インフレに伴うベースアップ的要素はその中に内包されていない。従って、原告主張の旧給与規定に基づく将来の賃金額と新給与規定の将来の賃金額を単純に比較するのは無意味である。
別表2についても、原告は職能昇格規定を十分に理解していない。
被告は標準的評価がCであると言明したことはない。また、新給与規定の下で、原告が呈示するように同じ評価が、長年にわたり継続するとの設例は極めて非現実的である。
原告は、新給与規定の導入により、賃金減となっているが、被告の社内で八〇パーセントの者が賃金増となっていることから考えると、原告の従来の賃金は能力、実績以上のものであったといえる。
被告は新賃金制度の導入にあたり、賃金補償制度を採用しており、平成八年七月から平成一〇年一二月までは調整給が支給され、また平成一一年一月で正式な格付けがなされたため、差額の四年間分が一時金として支給されている。従って少なくとも平成一四年までは賃金減とならない。
そして別表2からも明かなように、B以上の評価が続けば、平成八年の出発時点をいずれの年度も越えている。C以下の評価が続いた場合に補償措置が切れる平成一五年以降当初金額を若干下回る賃金となるが、C以下の評価が続くということは標準以下の実績しかあげられないということであるから、この程度の賃金減は是認される。なお、C以下の評価が続いたとしても、昇格による賃金増額の可能性もあり、別表2はこの点も看過するものであり不正確である。
(2) 争点(二)について
新給与規定は、合理性があり、かつ必要性がある。
<1> 年功だけで賃金が上がっていくという制度は、特に若年であっても能力があり、実績もあげている社員に対して仕事に対する意欲を失わせることになる。このため仕事をしてもしなくても賃金が上がっていくという実質的な賃金の不平等と沈滞した雰囲気が被告社内にあった。
そして日本の先端的で高い業績をあげている会社は、一様に年功序列の賃金制度を改め、業績に連動した能力本位の賃金制度を導入しようとしている。
労働組合も「従来以上に職能給を重視し、各人がその適正(ママ)に応じて成長し、その能力を伸長させるとともにその成果を適切に評価していく方向で取り組む」との方向性を示している。そして職能給の前提として「職能資格(等級)基準の設定と確立が必要である」とし、職能評価については「評価の公正と公開を原則にする」とする。
被告においても、単に年齢が上であるとか勤続年数が多いからといって、業績の優れた者よりも多額の給与を受け取るという合理性のない給与体系はもはや存在しえず、職務基準や職能要件の確立した公正かつ透明な新給与規定を導入せざるをえなくなった。新給与規定の目指すところは、仕事の出来る人には多くの給与を出し、社員が働きやすく働きがいのある会社になるようにすることである。従来の年齢や勤続年数が多いというだけで業績や能力のない者が高給を食むという制度は合理性がなく、時代や社員の要請に合致しない。
新給与規定においては、社員の格付や評価について債務基準、職務要件があるため、明確かつ客観的であり、主観的かつ恣意的な運用が行われにくくなっている。
また、実際の運用においても、目標管理制度を導入し、具体的業務に関する目標の設定やその結果について個人面談を行うことにより、格付や業績評価が公正に行われるようになっている。
なお、格付けを行うに当たり、公正を期すために二年半の経過期間を設けて最終的に決定することにした。
<2> 被告は、平成七年一二月ころに、組合及び社員に対して賃金制度の改訂の準備をしていることを発表し、平成八年五月に新給与規定の目的及び内容を原告の所属する組合に説明した。以後現在まで組合とは新賃金制度に関し、二〇回以上の団体交渉を行ったが組合との合意は得られていない。
他方、組合に所属していない社員に対しても、平成八年五月ころに全員に対する説明会や労働者代表と協議し、平成八年八月一九日に新賃金制度に関し労働者代表との同意を得て、翌二〇日労働基準監督署に変更届を提出した。
<3> 新賃金制度の導入により、約八割の社員について八二〇〇円から九三〇〇〇円の幅で賃金が上昇し、約二割の社員(原告を含む)について、九〇〇円から一三五〇〇円の幅で賃金が減少した。全体としては、前年の平成七年度に比べ、当時の平均賃金率を大幅に上回る三・八六パーセントの賃上率となった。
<4> 減額になる社員に対する措置として、減額分の賃金を社員の年齢に応じて異なるが相当年月分補償する措置を講じた(調整給を入れて八.(ママ)三九パーセントの賃上げ率)。例えば原告の年齢層である四五歳以上五〇歳未満の社員については、二年半の調整給による調整とその後四年間の差額を一括して支払うというものである。
2 乙事件
(一) 原告の主張
(1) 争点(一)について
本件のように、退職金規定の効力が問題となる場合において、原告が退職して具体的な退職請求権を取得しない限り、裁判所で争えないとすると、改定後相当長期間にわたって、既成事実が積み重ねられていくという結果だけが残り、改定後の規定によるとする「黙示の合意」が成立したとの推定を受けるおそれが存在する。また仮に被告がさらに将来制度を改定する場合には、今回問題となっている規定を前提とするものとなり、労働者としては、裁判で争う機会のないままさらに既成事実が積み重ねられていくという結果をもたらすのであり実質的に裁判をする権利を奪われることになるおそれがある。さらに被告に新退職金規定を前提とした退職金準備・引当措置を許すことになり、将来新退職金規定が無効となったとしても、現実の支払を確保出来なくなる事態も充分考えられる。
原告の定年退職は、平成二一年であり、遠い将来のことではなく、また本件において、退職金の支給額は各労働者の勤務年数、役職、将来の昇進見込等を想定してほぼ正確な金額を算出することが可能である。
以上より、本件においては新退職金規定が無効であることを充分に判断する事が可能であり、また現時点において無効の確認を求める必要性も存するといえるから、本件訴えの利益はある。
(2) 争点(二)について
<1> 旧退職金規定により原告が退職時に得られるであろう退職金の金額は、以下のとおりである。
基本退職金の計算
二〇、一八二、六五六÷(二〇、四九六、三二〇-二〇、一八二、六五六)×一〇/一二=二〇、四四四、〇四三
旧退職金規定における計算
二〇、四四四、〇四三×(一・〇四)の一六乗-三八、二九一、三〇九(乗率四%の場合)
二〇、四四四、〇四三×(一・〇二)の一六乗-二八、〇六五、二九〇(乗率二%の場合)
そして新退職金規定が適用になった場合の金額と、旧退職金規定による金額の比較は別表六<略>、七<略>である。これによれば、原告に対する査定如何にかかわらずすべての場合において退職金の金額が切り下げられることになる。具体的には、乗率四%を前提にするとAの場合で約一〇三五万円から約一八八五万円、C(基準)査定が続いた場合で約一八八五万円、乗率二%を前提とすると約一二万円から約八六二万円、C(基準)査定が続いた場合で約八六二万円という著しい減額となる。
この点、被告は、旧退職金規定における乗率は「インフレ条項」であって、昨今の経済情勢下では妥当しないと主張する。しかし乗率加算というシステムは、被告自らが制定した制度であり、旧退職金規定の出発当初から第一一条で明確に定められた制度である。そして、それが四半世紀も継続してきた制度であることからも、すでに原告を含む従業員の既得権ないしは法的に保護されるべき期待権であることは明らかである。
<2> 被告は、旧制度の乗率を四%から二%に適法に引下げたと主張するが、この点について労使合意も就業規則改訂の外形もない。
仮に外形上、就業規則を変更して四%から二%へ切下げた事実があったとしても、右改定は、不利益変更であるところ、代償措置や経過措置もなく、労使交渉の場で誠意をもって協議された形跡もないから、右切り下げを内容とする改定は合理性がなく無効である。
(3) 争点(三)について
旧退職金規定においては、退職金の金額は、「基本退職金」に退職までの年数に応じた乗率を加算することにより定まるとされ、勤続年数のみにより支給金額が決定加算される定額制度であった。これに対し、新退職金規定によれば、退職金の金額は使用者の一方的査定により金額が大きく変動するものとなっており、前述のとおり被告における査定が不透明なものであることからするならば、新制度は従業員の労働条件を著しく不安定なものにするものといえる。
そして賃金、退職金といった労働者にとって重要な権利の不利益変更については、高度な必要性が必要であるにもかかわらず、被告が主張する必要性は抽象的なものにすぎず、被告会社には、退職金規定を改定しなければならないという差し迫った事情もなく、流行を追いかけているに過ぎないから変更の必要性は存しない。
以上に加え、制度の前提となる人事考課のプロセスはまったくのブラックボックスであること、本件改定により労働者側が受けるメリットは何もないこと、労使協議も皆無であること、手続上労働者代表からの意見聴取もされていないことを考慮するならば、新退職金規定への変更について合理性は認められるべきではない。
二 被告の主張
(1) 争点(一)について
原告は、一〇年も先の定年退職時の退職金の多寡を比較し、一年毎の上積み金額の上がり方には変化があっても、少なくとも旧退職金規定による金額は下らないところの新退職金規定について無効確認を求めており、確認の利益はない。
(2) 争点(二)について
原告のなす新、旧両制度の退職金額の比較は、次元の異なるものを比較している(旧規定は「乗率」としてインフレ修正があり、新規定にはこれがない。)から、その比較は無意味である。また、原告が、新退職金規定の適用については、ポイント制の一ポイントを一万円に固定していること、各職能に与えられるポイント数が将来変わることがないとしていること、原告の昇格のパターンについても確かな予想が困難であることの問題点がある。
また、原告は「乗率」を四%としているが、右乗率は二%に変更されている。
比較するならば、将来のインフレ修正を含まない平成一〇年度の退職金、離職一時金額表と比較すべきであり、この場合は、B査定が継続すれば、ほぼ同じ金額となりB査定以上では旧制度を上回る。
新退職金制度は、旧退職金制度により改正時に受けとる金額を持点とし、そのうえに職能とその勤続年数によるポイント制による金額が上積みされるのであり、以前の額を下回ることはないから、不利益な変更ではない。
(3) 争点(三)について
新退職金規定への改定は、必要性があり、また合理性もある。
新制度は、能力・成果主義の新給与規定と密接に関連し、社員の実績と会社への貢献度を反映させた合理的なものである。また組合と、新制度について十分に協議してきた。組合と同意には至らなかったが、平成一一年二月八日労働基準監督署に変更届を出している。
第三当裁判所の判断
一 甲事件について
1 就業規則を変更し、労働者の既得権を奪い、また労働者に不利益な労働条件を課すことは、原則として許されない。しかしながら、右変更が、その必要性及び内容からみて、労働者が受ける不利益の程度を考慮してもなお合理性を有すると判断される場合には、労働条件の集合的処理の観点に照らし、使用者は個々の労働者の合意を経なくとも有効にかかる変更をなしうるとするのが相当である。ただし、その変更が、賃金や退職金といった労働者にとって重要な権利についてなされる場合には、かかる不利益を労働者に受忍させることを法的に許容できるだけの高度の必要性に基づいた合理性がなければならない。
2 争点(一)について
(一) 本件において、旧給与規定(一九条ないし二二条、二五条、二七条ないし三一条)に照らすならば、旧給与規定の下において原告が受け取るべき予想賃金は、別表5のとおりである。
この点、原告は、旧給与規定における予想賃金額は、別表1のとおりであるとし、職能給について回帰曲線で求めるべきであるとする。確かに、旧給与規定は年功序列的に運用されていたことから、職能給も今後上昇するとの原告の主張も是首しえないわけではないが、原告主張の別表1は、平成一三年以降、旧給与規定における当該職能の職能給の幅を超えた額となっている(<証拠略>、別表―Ⅲ職能給表)という不合理な点があるうえ、昇給については、その時々の会社の経営状況及び社会情勢に左右されるものであることは否めないことに照らせば、別表1のとおり職能給が上昇するとは考えられない。
また管理職手当についても、旧給与規定上は二万一〇〇〇円とされており、これについて原告主張のように二万三〇〇〇円が支給されたとの実績もないのであるから、この点についての原告の主張も採りえない。但し平成一五年には資格管理職三級となるであろうということについては、被告も特にこれを争わないことから、合理性のあるものといえる。
(二) 他方、原告の格付けが平成一一年一月一日に正式に決定されたことから、新給与規定における原告の予想される賃金額は、別表2の5のとおりとするのが相当である。この点、被告はBが標準の査定であると主張するが、新給与規定における評価においてCは「普通」とされていること(<証拠略>)、被告代表者も平成八年六月一七日の団交で「新給与規定の基準はCである」と説明していることに照らせば被告の右主張は採用できない。
(三) そこで、別表5と別表2によって検討するに、原告に対する新給与規定における評価がCであった場合には、新賃金規定によると平成一〇年から平成一八年までは賃金が減額することになり、その期間の賃金の合計は、被告による差額補償金の支給額を実質的に賃金として考慮しても、後述のように、少額に止まるとはいえ、新給与規定に基づく額が旧給与規定に基づく金額より減額することになる。そして、新給与規定における評価は、従来の原告の勤務成績からすれば当面は平均以下となる可能性は少ないとしても、平均より低い評価となる可能性がないではなく、その場合には、新給与規定を適用することによる賃金の減額幅はより大きくなるといえる。そうであれば、新給与規定は、原告にとって、給与規定を不利益に変更したものということができる。
3 争点(二)について
(一) まず、新給与規定を適用することにより生じる不利益の程度についてみるに、新給与規定における評価がCであった場合を前提とすれば、前述のように、平成一八年までは、旧給与規定によるよりも賃金が減額することになるが、被告は、新給与規定の実施に伴い、平成一〇年一二月まで調整給を設定して、改定時の賃金を下回らないようにし、平成一一年一月以降については、一年ないし一〇年分の賃金減額分の補償措置を設け、原告においては、同月において月額一万三五三〇円の減額となったとし、一年を一七ケ月として四年分九二万〇〇四〇円を支払った。そこで、平成一四年までは、賃金が実質的には減額することはないし、平成一五年一月以降については、若干減額することになるが、給与規定改定時の賃金とは大差ないし、平成一九年からは、増額に転じることとなる。新給与規定における評価がB以上である場合には、賃金が減額することはない。評価がD以下の場合は、評価がCの場合より減額となるが、最下級の評価であるFが続いた場合でも、月額賃金は三八万五〇〇〇円を下ることはない。
原告については、Bの評価がなされているから、同一格付の下ではD以下の評価となることは、特段のことがないかぎり、当面、考えにくい。
(二) 新給与規定は、能力主義、成果主義の賃金制度を導入するもので、評価が低い者については、不利益となるが、普通程度の評価の者については、補償制度もあり、その不利益の程度は小さいというべきである。不利益といっても、賃金規定改定時の賃金とは大差なく、後述のような、被告の経営状態がいわゆる赤字経営となっている時代には、賃金の増額を期待することはできないというべきであるし、普通以下の仕事しかしない者についても、高額の賃金を補償することはむしろ公平を害するものであり、合理性がない。そして、(証拠略)によれば、新給与規定の実施により、八割程度の従業員は、賃金が増額している。
このようにみてくれば、新給与規定への変更による不利益の程度は、さほど大きくはないというべきである。
(三) 原告は、新給与規定における職務基準、職能要件の規定の仕方が抽象的で不明確であること、格付けについても明確な基準がないこと、査定基準が不明確であり、恣意的に運用されるおそれがあることなどを主張するが、職務基準、職能要件、また格付けの基準、査定基準のいずれについてもある程度抽象的になることは、その性質上やむを得ないものであり、右基準を検討しても新給与規定を不合理なものとまでいうことはできない。
(四) 被告においては、不動産投資等の失敗により、四五期、四六期といわゆる赤字経営となり(この点は当事者間に争いがない。)、収支改善のための措置が必要となったのであるが、近時、我が国の企業についても、国際的な競争力を要求される時代となっており、労働生産性と結びつかない形の年功賃金制度は合理性を失い、労働生産性を重視し、能力、成果に基づく賃金制度をとる必要性が高くなっていることは明白なところである。被告においては、営業部門のほか、原告の所属する研究部門においてもインセンティブ(成果還元)の制度を導入したが、これを支えるためにも、能力主義、成果主義の賃金制度を導入する必要があったもので、被告には、賃金制度改定の高度の必要性があったといえる。
(五) そして、被告は、新給与規定の導入にあたり、労働組合(構成員は原告を含め二名)とは合意には至らなかったものの、実施までに制度の説明も含めて五回、その後の交渉を含めれば十数回に及ぶ団体交渉を行っており、また、右組合に属しない従業員は、いずれも新賃金規定を受け入れるに至っている。原告は、労働条件の変更については労働組合との合意を得て実施するという慣行があった旨主張するが、そのような慣行までは認めることができない。また、原告は、就業規則変更の手続において労働者の意見聴取方法に瑕疵があると主張するが、労働基準法九〇条一項は、使用者に意見聴取義務を定めたに過ぎず、労働組合との団体交渉が重ねられ、また、他の従業員がこれを受け入れているという事実関係の下では、右形式違反をもって、就業規則変更を無効とすることはできない。
(六) 以上によれば、被告における新給与規定への変更は、高度な必要性に基づいた合理性があるということができる。
二 乙事件について
原告は旧退職金規定が効力を有することの確認を求めるものであるが、その確認を求める趣旨は、退職金規定の変更によって生じた将来の退職金債権の有無や額に対する不安を除去するところにあるといえるところ、退職金債権は、原告が退職して初めて具体的に発生するものであり、退職前には未だ具体的な債権として存在するものではない。そして、退職金規定は、当事者が合意する場合には容易に変更され得るし、合意のない場合においても変更される余地がある。そうであれば、退職前に退職金規定の効力の確認をしても、無益といわざるを得ず、また、退職金債権については、これが具体的に発生した段階で給付請求をしても遅すぎることはない。そうであれば、右確認を求める訴えは、即時確定の利益を欠くものというべきである。
してみれば、原告の右訴えについては、不適法というべきである。
三 結語
以上により、原告の甲事件にかかる請求を棄却し、乙事件にかかる訴えを却下する。
(裁判長裁判官 松本哲泓 裁判官 川畑公美 裁判官 和田健)
別紙一 退職金:離職一時金金額表
(平成5年4月1日~平成6年3月31日)
<省略>
別紙二 退職金:離職一時金金額表
(平成6年4月1日~平成7年3月31日)2%
<省略>
別表1 (旧規定に基づく賃金予想)
<省略>
別表2 (新賃金に基づく予想賃金)
5) Cが続いた場合
<省略>
別表3 旧規定賃金と新規定賃金との比較(月額)
3―1 賃金比較(月額)
<省略>
別表5 旧規定に基づく賃金(原告の場合)
<省略>